自分のルーツを辿るシリーズ④ 〜小学校時代〜
今回は9歳の時に、自分の身体に起こったことについて。
1998年5月1日。
自分は右耳の聴力を失った。
この日のことは忘れもしない、
だって、楽しみにしていた遠足の日だったから。
異変に気付いたのは朝起きた時。
最初は「なんか耳がおかしいな?」という感じだった。
多分この時から右耳は聞こえてなかったのだろうけど、
それ以外は特に元気だったから、心配する両親を振り切り、
楽しみにしていた遠足にいった。
右耳もすぐ良くなるだろうと思っていた。
しかし、遠足から帰ってきた次の日。
自分は発熱と吐き気によって入院をすることになった。
病名は確か耳下腺炎。おたふく風邪のようなものらしい。
その時に同時に併発したのが、ムンプス難聴なるものだった。
ウィルスによって細胞が破壊され右耳の聴力は0となった。
調べてみると、1万人に1人くらいの割合で発症するみたい。
見事当選。
この難聴は、日本では治らないようで今も仲良くお付き合いしている。
こうやって、文字に起こしてみるとすごい大変なことが起きたように
感じるかもしれないが、
なってしまったらもうそれを受け入れるしかなくて、
まわりもびっくりするくらい今までとなんら変わらなかったんじゃないかと思う。
ただ、どこかでいつか治ると期待している自分もいて、
寝る前に毎日神棚の前で「耳を治して下さい」ってお願いをしていた。
物理的に治らないって知っている今でも、
何か奇跡が重なって急に聞こえるんじゃないかとも思ったりする。笑
難聴になってよかったことは、ない。
無理やり絞り出すのであれば、
聞こえる耳を下にして寝れば無音になることくらいかな。
(24時間耳鳴りがしているから無音になるということはないけど)
ただ、難聴だから経験できたというか、感じることができたことは
たくさんあるような気がする。
20代の後半くらいかな。
それくらいからは耳が聞こえないということを必要であればちゃんというようになっていた。いい意味で割り切れたというか、聞こえないことに遠慮しなくなった時期がそれくらい。左側の席だったら右側の席に変えてもらったり、美容師さんに右から話しかけないようにいったり。そんなことが日常的に、無理をしなくても言えるようになった。
自分が出会ってきた人たちはみんな優しい人だったから、いえばみんな分かってくれた。それだけも十分嬉しい。
中には神様みたいな人もいる。
それは次会った時にそのことを覚えてくれて配慮してくれる人や、最初から右側の席を準備してくれる人。
自分はこの耳のおかげで、「嬉しい」って思えることが他の人よりも一つ多いのだ。
自分は耳が聞こえないことがハンディーだなんて思ったことは一度もないけど、
自分のハンディーやコンプレックスみたいな弱みも、勇気を持ってちゃんと伝えていけば、その代わりになってくれる人は世の中にはたくさんいる。
難聴というものを授かって、人の優しさをとても感じることができている。
それが嬉しいから、自分も優しくありたいとも思う。
「今の自分があるのもこの耳のおかげなのかもしれない」と思えば、
これも自分の大切な個性であって、自分の人生には必要なものだったのだと思える。
最後に。
たぶんだけど、耳が聞こえなくなって一番苦しんだのは両親かもしれない。
自分以外に、一番自分事として向き合ってくれた存在だったから。
耳が聞こえなくなり、初めての入院でもあり不安でしょうがなかった当時、
両親は泊まり込みで一緒にいてくれた。
その優しさが、この困難を乗り越えられた最初の理由。
この耳も含めて曽根原信彦なんだと。
いまは自信をもってそう言えるよ。
ちなみに、NHKの連続ドラマ小説で放送された「半分、青い。」
はムンプス難聴を題材にしているみたい。
(見たことないけど)